町の起こりについて昭和59年に亡くなられた当町会副会長島根直行氏が、「文京区史」より調べられた記録(平成5年5月発行の北町会会員名簿に記載) に基づき下記に要約してみました。
「駒込千駄木町」は元文年間(今から250年以前)に起こった総禅寺、専念寺という2つの寺があり、その門前と世尊院門前及び旧高尾藩の太田氏別邸をあわせて、 明治4年2月、地名とされ更に、明治13年に至り下駒込村の内と明治24年に下駒込の内藪下を併せて地名とされました。 また「駒込坂下町」はもと「千駄木坂下町」 といったが明治2年に板倉氏の別邸跡と明治24年3月に、元駒込村字本根津下や、笹原下、藪下の内及び日暮里飛び地を併せて、明治44年に「駒込坂下町」と改称したと記録されています。
明治33年頃までは豊島郡下駒込村の一画として、通称「ひぐらしの里」といわれ「谷田田圃」と谷田川(今の夜店通りの下を流れ、川下になると逢初川となり不忍池に注いだ) を挟んで向かいあわせた、通称“小笠原田圃”という誠に泥深い一面の田圃だったそうです。
第二次世界大戦が深まったころには「旧駒込坂下町」と「千駄木町」を分離して、それぞれ独立した町内会自治を行う事となり「駒込坂下町」はその全域を含めて「駒込坂下町会」 という名称となったそうです。
【 昭和18年当時の町会総会記念写真 】
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敗戦後の昭和21年9月中旬頃、当時の町会長であった菅矢太郎氏の呼び掛けにより子供達の勉強会を発足しましたが、これに賛同参画された方々は次の各氏でした。 石垣九十九、 冨本茂、沖美一、加藤嘉一郎、 吉森喜太郎、福井金太郎、小谷貞一、阿部宗造、鬼頭宇吉、宮川文造、白旗市五郎、島田住吉、杉山岩吉、鈴木岩造、菅井末冶、菅矢太郎。然し昭和22年5月「マッカーサー指令15号」 の発令により町会解散となり、その後「若葉子供会」が結成されました。この会は従来の町会の自治活動の一環としてではなく、新たな構想による委員会制度による独自な運営を図る事になり、 委員長には吉森喜太郎氏が就任されました。この様な過程を経て昭和23年5月に新しく「駒込坂下北部協力会」が結成されましたたのを機会に「若葉子供会」は青少年部の傘下に入り、 東京都下における最も優秀な子供会として本郷区長や東京都教育委員会から度々の表彰を受けるという、活発な活動をつづけました。
「駒込坂下町北部協力会」が結成されましてから、委員長は当分欠員とし、副委員長に冨本茂氏、野口守雄氏が、会計には福井金太郎氏と宮川文造氏が選任され、これに旧役員の方々が一致協力されました。
昭和27年になって町会の体制も整備され次の方々が委員に就任されました。
委員長 菅矢太郎
副委員長 冨本茂 野口守雄
会計 宮川文造 手塚毅三
監事 鈴木岩蔵 亀山八雄次
常任理事 石垣九十九、杉山岩吉、沖美一、吉森喜太郎、目黒栄治、福井金太郎、
井出保三郎、天野鐘吉、加藤嘉一郎、米岡寛治郎、長浜林次、手計末吉、
加藤次郎吉、古宮輝蓮、清水周馬、新谷六太郎、小林亀三郎、松沢智頭、本山正夫
委員 坂田市太郎、小林貞雄、島田公雄、島根直行、小財清市、石塚弘、石井桂太郎、
菅井市太郎、松崎光造、茂原鉱次、柴田勇次郎、阿久津正、佐藤修吾、出井禧男、
萩原澄雄、井上雄二郎、上部益弘、瀬川長重、小林英吉、諏訪野喜一郎、佐藤実、
柿沼勝三郎、益田音作、中源蔵、野中芳太郎、長谷勇、渡辺倉吉、島川政吉、
今井利雄、加藤寅之助、佐藤長治
それぞれ庶務、保安、防火、文化、厚生、青少年、婦人各部の部長や委員及び各地区部長と組長などの仕事を分担されました。
昭和35年には「北部協力会」の名称が「駒込坂下町北部町会」となり、昭和38年には交通部、昭和46年には公害防災部が新設されました。昭和40年には住居表示改正に伴い、 現在の呼称である「千駄木三丁目北町会」と改称され現在に至っております。
次に歴代町会長名を列挙いたします。
初代 菅 矢太郎 氏(故人)
二代 冨本 茂 氏(故人)
三代 野口 守雄 氏(故人)
四代 本山 正冶 氏(故人)
五代 瀬川 長勝 氏
六代 菅 完治 氏(現職)
(現職)
50年という町会の経歴はこの間歴代の役員諸氏が、幾多の難問に挑戦され、これが解決の為に常に自己犠牲の精神に徹底し、ひたすら町の発展に尽力された結晶であり、 故人となられた方々も含めて先輩の皆様には心より深甚の謝意と尊敬の念を表明する次第です。
今後も明るいよりよき「千駄木三丁目北町会」となるため、現役員が一致協力して事にあたる覚悟でありますので、皆様方には当町会発展の為、 何分の御協力を賜ります様心よりお願い申上げます。
(本文は千駄木三丁目北町会前副会長の伊川玲二氏が平成9年の会員名簿に寄稿されたものを一部抜粋して掲載しています)
【 昭和31年9月 子供神輿を前にした当時の役員 】
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